Gold Dealerの一日
2010年3月10日

 今週から少しディーラーの行動を書いて行きましょう。ディーリングという意味では私自身は、立場的にも年齢的にも、最前線を退いてからもう何年も経ちます。そして私がまさに最前線にいた頃と現在とは大きく市場環境が違っています。

 が、とりあえずずっとディーリングルームの中にはおり、最前線にいた頃とほぼ変わらない生活をしていますので、現在のディーラーの行動パターンを、もし自分がやっていたらということも含めて、新旧の状況を織り交ぜてご紹介したいと思います。


 ディーラーの朝は早い、と言い切りたいが、これは結構人によるところが大きいです。少なくとも僕の朝は早いと言っておきましょう(笑)。僕はだいたい朝3時半に起きます。まず最初にトイレ、そして紅茶かコーヒーを入れます。風呂の追い炊きボタンを押してから、自分の部屋に戻り、パソコンを立ち上げて、仕事、プライベートのメールをチェック。

 それから ブリオンデスクキトコ というサイトで相場のチェック。皆さんご存知のとおり、昔からそして今でもやはり大きく相場が動くのはニューヨークの時間帯です。昔まだ、Globex(Nymexのコンピュータ取引システム。日本時間の朝7時15分から8時までのbreak(夏時間は一時間繰り上げ)を除いて、24時間相場をカバーしている)が稼動する前は、ニューヨークの引けから東京のオープンまで数時間のギャップがあり、その間はシドニーのディーラーたちほんの二、三社が細々とマーケットを作っていました。東京時間の午前3時から東京工業品取引所(東工取)が始まる午前9時くらいまでの6時間位が、長く薄いシドニータイムで、当然のことながら流動性はほどんどなく、ほぼ無視されるようなマーケットでした。そのため、東京のディーラーたちは、長年、ニューヨークの引けで翌日の東工取へのポジションを取りました。

 東工取へ向けてポジションを取るとはどういうことか。それを説明しましょう。現在のようにGlobexによってほぼ切れ目なくつながっているマーケットではなかった頃は、ニューヨークと東京の間には明らかに空白の時間がありました。シドニーは上記のようにほとんどマーケットとしての機能を果たしていませんでした。当時は、東工取は押しも押されぬアジアマーケットの中心的存在。そこでの個人投資家の動きがアジアでの金相場を決めていたと言っても決して過言ではありませんでした。

 そんな日本の個人投資家の行動パターンを非常に簡単にいうと、いわゆる「バーゲンハンター」と呼ばれるものでした。つまり、相場が下がったら買い、上がったら売る、というきわめてまっとうに感じる投資性向です。ところが、この「バーゲンハンター」という投資スタイルは世界の主流ではなく、欧米では「トレンドフォロワー」というスタイルが主流。これは相場が上がってくると買い始めて上がり続けているうちは買い、逆に下がり始めると売り始め、下がり続ける限り売るという投資スタイル。日本語でいうとトレンドフォロワーはいわゆる順張り、バーゲンハンターは逆張りといことになります。

 この投資性向のため、ニューヨークと東京ではまったく正反対の動きをすることが非常に多かったのです。例えば、その日のニューヨーク市場が大きく下げて、前日の東京の引け値よりも、金価格が50円安くなったとします。翌日の午前9時に始まる東工取は、基本的にはニューヨークの引け値のレベル、つまり前日より50円安くなるはずです。ところが、東京の個人投資家は安くなると買ってきます。東工取にはそういう買い場を待っている投資家がたくさんいるのです。そうすると結果的に個人の買いにより、東工取のオープニングは本来50円下がるべきところが、40円しか下がらなかったということがままありました。というか、ほぼ恒常的にそういう状態だったと言うべきですね。

 また逆を考えてみましょう。ニューヨーク市場で金が前日東工取の引けよりも50円上がったとします。東工取も本来ならば50円上がるはずです。ところが、東京は上がると利食いの売りを出したい投資家がたくさん待っているのです。この売りにより、東京は本来50円上がるはずのところが頭を抑えられ30円しか上がらなかったということもこれまた非常に頻繁にあったのです。

来週へ続く

★池水氏によるブルースレポート
http://www.ovalnext.co.jp/bruce/



Gold Dealerの一日(2)
2010年3月17日

 さて、話がどんどん過去の話にワープしますが、せっかくだから徹底的に。

 こういった状況がほぼ8割から9割の確率で起こるとすると、ニューヨークで大きく動いた日には、その引けでポジションを取ればまず確実に利益を取れることになります。事実、おそらく1980年代から90年代後半までこの戦略は非常に有効でした。一日の勝負はニューヨークの引けと東京オープニングでほぼ決まり、あとは適当に流すと言ってもいいくらいでした。

 ニューヨークで大きく上げた日は、ニューヨークのクローズでショート(売り)して、翌日東京のオープニングでそのレベルまで上がりきらない東工取を買い戻して利食って終わり。ニューヨークで大きく下げた日はニューヨークのクローズでロング(買い)して、同じく翌日の東京のオープニングで、ニューヨークのクローズレベルまで下がりきらない東工取で売って利食っておしまい、という考え方によっては非常にシンプルなパターンで利益を上げることができました。そのためディーラーにとっては早起きすることはなんとしても必要だったのです。

 もう少しさかのぼった話をしましょう。その昔、1980年代、東工取のプラチナの取引は急速に伸びて圧倒的なボリュームを誇り、プラチナに関してはまさに世界一の取引所となっていました。しかし当時はまだスイスやロンドンのディーラーたちは東工取の存在を軽視していた部分が多分にありました。ニューヨークのディーラーたちにしても、まだまだ日本は彼らにとっては実需のお客さんとの位置づけのままで、海外のディーラーたちが「オーバーナイトオーダー」という形で、一晩中有効なオファーを日本のお客さんに残していた時代でした。

 スイスやロンドンのディーラーたちは朝オフィスにやってくると東京で起こっていることをまったく無視して、ニューヨークの引け値からマーケットを始めていたのです。もちろん、東工取が活発になる前は、アジアにはみるべきマーケットがなく、ニューヨークが終われば、次のロンドンが始まるまで基本的には無視してもいいようなマーケットであったことは確かだったのです。しかし、東工取の登場によってこの図式が大きく変わったのでした。

 そして欧米のディーラー達が気づく前に、東工取はどんどん盛り上がり始めました。特に火を噴いたのはプラチナ。一般投資家からの強烈な買いや売りが東工取に入って来ました。それに対していわゆる裁定取引業者として頑張ったのが総合商社でした。特に住友商事、三井物産といった商社は、東工取での一般投資家の買いや売りに対してその相手となり、東工取に流動性を与えていました。しかし彼らがそのポジションをカバーできる市場はアジアには存在せず、基本的にはロンドン、ニューヨークの市場のオープンを待ってポジションをカバーしていました。

 具体的にいうと、東工取で一般投資家が大きく買いを入れてきた日は、商社は価が割高になっている東工取でプラチナを売り、そのショートを抱えて欧米のマーケットを待つのです。東工取がニューヨークの引けよりも20ドルも30ドルも高いレベルまでプラチナを買い上げることは日常茶飯事でした。商社はそこを売るのです。そしてそのショートを抱えてスイスやロンドン勢が出てくるのをひたすら待ちます。

 スイスやロンドン勢はその日の東工取の価格などには目もくれず、前日のニューヨークの引け値から取引を開始します。もちろん日本の商社は東工取を売った価格よりもはるかに低い価格でそのショートポジションをカバーすることになります。スイスのディーラー相手に、I buy, how’s now? とやるわけです。ひとつのプライスで買って、次のプライスはいくらだ?というわけです。最初の頃はそれでもアジアの片隅の日本を馬鹿にしていたスイス勢でしたが、これが度重なると彼らもさすがに相場でやられることになります。朝一に極東の日本から怒涛の買いや売りがやってくることになりますからね。

 当時の世界のプラチナマーケットは三鷹に住んでいる二人のディーラーが動かしていたという話があります。ともに三鷹近辺に住んでいた当事住商のT氏と物産のF氏。二人ともほぼ毎朝ニューヨークの引けにかけて、翌日の東工取に向けてポジションを取るのが常でした。お互い必ず同じ方向の取引をするので、片方が買い(もしくは売り)はじめると即座にもう片方もそれが分かったようです。

 まさにニューヨーク引け前の一時間くらいからは、この二人の取引が相場をコントロールしていました。そしてヨーロッパの寝起きを襲うのもこの二人のポジションでした。我々は冗談半分、本気半分で、当事のプラチナマーケットは三鷹からコントロールされていたとよく言っていたもんです(笑)。それくらい、東工取の影響は大きかったのです。

★池水氏によるブルースレポート
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Gold Dealerの一日(3)
2010年3月24日

 さて、30年前の話はこれくらいにしておきましょう。時を大幅に飛ばして現在です。僕はだいたい午前3時半くらいに起床です。この時間帯にはNymexのフロア取引はもはや終了し、Globex上でのコンピュータ取引が続いている状態になっています。東工取は遠い昔に「場」を廃止し「場立ち」の人々も仕事を失いましたが、Nymexではいまだに「Floor」が存在し、「Floor Trader」が存在します。しかしながら近年では「Side by side」と呼ばれる、Floor Traderたちによる「Floor」取引とコンピュータによる取引の同時進行が行われています。ただFloorでの取引は減少の一途をたどっており、取引量はどうしてもコンピュータ取引に流れています。その24時間制もあいまって、最近ではNymexの取引の大部分がこのGlobexと呼ばれるシステム上で行われていると言っても過言ではありません。

 Globexにおける取引はほぼ24時間行われており、唯一マーケットが閉まるのが、東京時間午前7時15分から8時の45分間(夏時間では午前6時15分から7時までの間)だけです。その間ずっと取引が続いており、先週までの昔の話のように、Nymexのフロア取引が終わってしまえば、基本的に東京のオープニングまではほぼ何もないようなマーケットではなくなってしまいました。この環境下においてはもはや、ニューヨークのクローズでポジションを取るということがまったく無意味なだけではなく、東京が始まるまでの相場変動のリスクにさらされるということになります。

 ということでおそらく現在では昔のような逆張り戦術をやっているディーラーはあまりいないと思われます。日本の個人投資家の参加自体が東工取から減ったこともあり、近年では逆にトレンドフォロワー的な動き、つまりニューヨークが下がったらそれ以上に下げたり、上がったらそれ以上に上がったりということが頻繁に起こるようになりました。もはや以前と同じような確率で勝つことができなくなったことも、このような方法が有効でなくなった大きな原因の一つです。

 Globexによって24時間ほぼ間断なくつながれた市場にはもはや、昔のような「おおらかな」裁定取引のチャンスも減りました。ゴールドの市場も外国為替市場のように全てがすべてにつながった「超効率的市場」になりつつあるのです。

 最近ではコンピュータによる裁定取引がいやおうなしにマーケットの主流になっています。一番わかりやすい例は、Globex(Nymex)とEBS(Loco London)の間のEFP(Exchange For Physicals)を決めて自動売買ができるようにするプログラムです。これはこの二つの市場(先物とスポット)の差EFPを決めて、自動的に売買させるだけです。このために現在ではGlobexの動きがそのままEBS= Loco Londonの価格に反映されるようになりました。

 昔はアジア・ロンドンはスポット・ロコ・ロンドンが中心のマーケットで、価格につながりがありました。1105ドルで買われたら次の価格は1104.50−1105.50といった風にその値段を挟んで動いていきました。ところが今は、1105ドルで買われると次の価格は1108ドルに飛んでいたりします。まさに先物主導のマーケットになっており、昔のようにマーケットメーカーとしてのディーラーが根性でポジションを大きく取ってマーケットと対峙していくというやり方ができなくなりました。

★池水氏によるブルースレポート
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Gold Dealerの一日(4)
2010年3月31日

 一日の時間がなかなか朝から進みません(笑)。まず起床してなにはともあれスポットマーケットをチェックし、相場の動きを確かめます。インターネットは本当にいろんなことに革命を起こしてくれましたが、その際たるものはやはり情報の普遍化だといえるかもしれません。スポット価格も現在はリアルタイムの価格をインターネットでみることが出来るようになりました。少し前までは、ディーラーたちはポケットロイターというその昔のポケベルのような情報端末を持ち歩いていたものです(必要もないのに合コンで取り出して「いや、相場がね」なんて格好をつける輩がたくさんおりました(笑))。もちろん現在ではネットで簡単に相場を見ることができるので、ロイターのこのサービスも数年前になくなったようです。

 とにかくまずはThe Bulliondesk.comのページを立ち上げて、寝ている間のメタルおよび為替の動きをチェックします。前日の東京の引け(夕方5時)から相場がどれくらい動いたかを計算し、そして次にGold Forward Rateをチェックします(Forward Rateに関しては貴金属マーケットの裁定理論の章を参考のこと)。これが大きく動くとスポットと先物の鞘に変化がでてきます。でもスポット価格自体のような激しい動きは滅多にありません。ですから、大抵はスポットの値動きだけを見れば、だいたいことが足ります。その後、もし大きな動きがあればいったいどういう背景があったのか、ニュースやロンドン、ニューヨークの支店からの情報をチェックします。誰が売ったのか、誰が買ったのか、わかる範囲でつかんでおきます。

 私が家を出るのは午前5時前で始発電車に乗ってオフィスに向かいます。オフィスに着くのがだいたい6時前。ディーラーはみんなそんなに早いわけではありません。実際、オフィスで一番早いのは私です。電車はもちろんゆっくり座って、日経新聞に一通り目を通します。最近では日経新聞を読まないビジネスマン(and ディーラーも)多いようです。私の世代では就職したらまずこの新聞を購読することが当たり前でしたが。若い世代曰く、「ニュースはwebで見れますから」。うーん、新聞の発行部数が減少の一途をたどるわけですね、ほんと。とにかく日経新聞で経済の流れ全体の「感じ」を大雑把に掴むだけでも意味があると思うのですけどね。

 オフィスに着くと、まずは改めて前夜のロンドン・ニューヨークの市場の流れをチェックします。そこから私の場合は Bruce Report という毎朝のレポートを書き始めるわけですが、だいたいそれを1時間くらいやってから朝7時オープンのジムへランニングに行きます。現在最前線で頑張っているディーラー達はだいたい7時前から8時過ぎにかけてオフィスに来る連中が多いです。もちろん中には9時の東工取オープンぎりぎりに来るといった人間もいるようですが、正直その時間では準備が十分できるとは思えません。まあ、各人のスタイルと言ったらそれまでなのかもしれませんが。

 冬時間は東京時間午前7時15分にGlobexが終わり、午前8時まで取引が中断されます。そして午前8時と同時にGlobexがComexの取引を再開し、東工取が始まる午前9時までにある程度の取引がすでに行われて、相場の流れが形成されています(夏時間になるとこれが1時間早まります)。この時間帯はマーケットも薄く、大きく値が飛ぶことがよくあります。要注意の時間帯。

 しかし東工取が始まると同時に東京のディーラー、香港のディーラー、シンガポールのディーラー達が一斉に活動を開始します。アジアの時間帯の始まりです。まずは東工取のオープニングが一つのチャンス。前日の引け(午後11時)からの価格のギャップが大きければ大きいほど東工取の価格がゆがむ、つまり裁定取引のチャンスが増えることになります。

 中国・東南アジアとは時差が1時間から2時間あります。アジアのビジネスが本格的に市場に入ってくるのは、日本時間の午前10時以降になります。

★池水氏によるブルースレポート
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Gold Dealerの一日(5)
2010年4月7日

 東京の午前9時がアジア時間の取引の本格的なスタートになります。香港やシンガポールのディーラー達もほとんどがこの時間から本格的な取引をスタートさせます。しかし大部分のアジアの人間にとってはまだ現地時間の午前8時であり、アジアの顧客の興味が市場に出てくるのはだいたい東京時間の早くても10時から11時ごろになります。これくらいになると、アジアの顧客から頻繁に価格チェックや値決めが入り始めます。

 アジアの顧客の大部分はドル建てのロコ・ロンドン・スポット価格ベースで聞いてきます。それに対してディーラーは、その時点でのロコ・ロンドン価格、GlobexでのComexの価格、そして東工取の価格を比べながら顧客に価格を提示します。たいていのディーラーは自分のスプレッドシートに、EBS(Loco London)、 Globex(Comex)、 Tocomの三つのプライスをフィードしています。先物であるGlobexとTocomに関しては、すべてLoco London ベースに自動的に計算して、この三つのマーケットのどれが一番割高で割安であるか、また各マーケットの流動性(どれくらいの数量をベストプライスで売買できるか)がどれくらいあるかを常に注意を払って見ています。もし顧客が買ってきたら、この三つのマーケットの最も割安なところで買ってポジションをカバーし、逆に顧客が売ってきたら、最も割高なところで売ってヘッジをするのです。

 相手が現物の顧客であれば、たいていの場合は前もってロコ・ロンドン・ゴールドとその顧客が実際のゴールド現物を売り買いする場所、例えばバンコクとのロケーション・プレミアムを決めておきます。今バンコクでのゴールドキロバーが、ロコ・ロンドン・ゴールドに対してオンス当たり1ドルのプレミアムだとして、それで顧客との合意ができていれば、ロコ・ロンドン価格で値段を決めて、その後にプレミアムを足して、それで決済するということになります。

 東南アジアやインドのような基本的にゴールドの消費地である場所では、そもそもディーラーが顧客に現物をまとまった量で預け(コンサイメントといいます)、それを顧客の都合のよい時に値決めしていくという形が多く、この場合は当然のことながらディーラーと顧客との間でこのようにプレミアムが前もって決められているのが普通です。

 アジアのたいていの国ではこのやり方が主流ですが、日本はコンサイメントがもはや主流ではなく(昔はそうでした)、現在はあくまでスポットでの買いと売りのデリバリーを伴う現物商売が主流となっています。顧客もほぼみんな円建ての金の価格が必要であり、為替も絡んでくることから、海外のようにドル建てロコ・ロンドン・価格での商売は例外的で、たいていは円建てロコ・東京、すなわち、そもそも東京で受け渡しする条件の価格で取引をするのが普通です。そのため、その価格がロコ・ロンドン価格に対してプレミアムなのかディスカウントなのかは、その瞬間でのロコ・ロンドン価格と比較するしかありません。

 こういったロケーションによるプレミアムやディスカウントは、その場所での金の現物の需給状態によって決まってきます。大雑把に言って、2005年以降のゴールド価格の上昇基調が顕著になって以降は、これまでの数十年間に散々買ってきた日本の投資家からのロングの利食い売りが増えています。そのため日本は恒常的なディスカウントとなっています。つまり需要よりも供給、投資家の現物売りが多いため、日本のディーラーは国内の顧客に現物を売られることが多くなっています。

 ところが一方、インド、東南アジアや中国に目を向けると基本的に彼の地のマーケットはコンサイメントを中心として買いが主流です。ちょうど20年、30年前の日本がそうであったように。こと金現物の商売に関する限り、アジア諸国と日本とでは、買い手と売り手といったようにサイドがまったく逆になることが多く、両方にアクセスを持っているディーラーにとってはおいしい関係にあるといえるでしょう。ここ数年、日本から東南アジアへの金輸出量は大幅に増加しています。この背景には東京で顧客に売られたゴールドのキロバーを東南アジアへ輸出するというディーラーの動きがあるのです。

★池水氏によるブルースレポート
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Gold Dealerの一日(6)
2010年4月14日

 さて、東工取のオープニングからアジアマーケットが始まり、昼前にはアジアの顧客のインタレストもマーケットに入ってきます。東工取の裁定取引、そしてアジア顧客のフローをさばきながら、アジア時間は過ぎて行きます。昔は東工取の昼休みがあり、その間はマーケットもほぼ休止状態になっていましたが、2010年4月現在ではこの昼休みは廃止され、午前9時から午後3時半まで通しで取引が続いています。そのため、古き良き東京の昼休みはもはや存在せず、ディーラーたちは順番に弁当を買ってきてそのまま席で食べて済ましてしまうことが多いのが現状です。古きよき時代には、最長2時間の昼休みがあり、たまには遠出しておいしいものを食べに行ったりして、今から思えば生活に潤いがありましたね。(笑)

 午後に入るとまず午後3時半に東工取が一日の取引を終えます。ここから午後5時までは東工取はお休み。そして東京午後5時、(夏時間は東京午後4時)にロンドンマーケットの正式なオープニングとなります。冬時間では東工取の夜間取引の開始とロンドンのオープニングがちょうど重なるわけです。これはロンドンの午前8時で、この時間帯からいわゆるマーケットメーカーと呼ばれる人々が価格の提示を始めます。

 昔はこの時間になるとロンドンのディーラーに価格を聞いたりして、その日のロンドンマーケットの方向を占ったものですが、最近は直接電話やロイターディーリングで価格を聞くことはほとんどなくなりました。世界の市場の中心であった(「ロコ・ロンドン」、ロンドン渡しという金取引のスタンダードの名前を考えてみても)ロンドンマーケットもやはり、時代の流れとしてのコンピュータ化は避けられず、ロコ・ロンドン取引はEBSで、そしてComexの取引をやっているGlobexの影響もかなり大きくなっており、従来の相対取引(OTC)としてのディーラー間の電話やロイターディーリングによる直接取引は非常に少なくなっています。我々もやはりだいたい日本時間の午後4時ごろ(夏時間は午後3時ごろ、ロンドンの午前7時)くらいになると、EBSであたる取引相手にロンドンの名前が増えていきます。

 アジアのディーラーたちは基本的にロンドンマーケットのオープンと同時にロンドンオフィスにブックをパスします。ブックとは顧客のオーダーや、自分のポジションの利食いや損切りのオーダーも含めた会社全体としてのポジションをまとめたものと考えてもいいかもしれません。基本的にはその時間帯の中心となるべき拠点が責任をもってすべてのオーダーをみるというこになります。アジアの時間帯はシンガポール、香港、東京などの拠点が、ロンドン時間帯はロンドンの拠点が、そしてロンドンの午後になってニューヨークが始まるとニューヨークが、という具合です。ですからそういうメインのブックをロンドンに引き継いだ後は、東京のディーラーは基本的に気が楽になります。もしポジションを持っていればオフィスにいる間は自分でマーケットをウォッチし、家に帰る前にロンドンにオーダーを預けて帰るということが多いですね。

 東京のディーラーたちは、ほとんどがロコ・ロンドンと東工取との裁定取引をその活動の中心にしてきました。ですから、いわゆるスポットのポジションを取って相場の上げ下げにかけて儲ける、というものとは少し違います。日本時間夕方になり東工取が終わってしまうと基本的にはやることはなくなります。もちろん、ナイトセッション(夜間取引、午後5時から午後11時)まで追いかけるというのであればまた話は変わってきますが、朝の9時から夜の11時まで一人で全部カバーすることはほぼ不可能であり、現在はプロのディーラーたちはほとんど東工取の夜間取引は無視している場合が多いです。

 こうしてとりあえず東京のゴールドディーラーの一日が終わります。東京はディーラーのみならずお客さん(宝飾や工業用などの需要家)も一日が終わる時にはポジションをフラット(売り越しも買い越しもなく、相場のリスクを負わない状態)にします。そのため、だいたい5時半、6時を過ぎるとほとんど取引はなくなります。これはほかのアジアの国々とは大きな違いといえます。来週はそこのところを書きましょう。

★池水氏によるブルースレポート
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Gold Dealerの一日(7)
2010年4月21日

 今週は夜の話。東京のトレーダー達は基本的に夕方にはブックを閉じてロンドンにオーダーをパスして、その業務を終えます。マーケットはロンドン、そしてニューヨークへとその活動の中心を移していきます。ところが他のアジアのマーケットの拠点である、シンガポールや香港では少し事情が異なります。香港やシンガポールの会社ではたいていの場合ナイトデスクがあります。ナイトデスクのディーラーは夕方5時ごろに出社し、だいたい翌日のComexクローズまで、つまりロンドンとニューヨークのマーケットをカバーするということになります。ロンドンやニューヨークにもオフィスがあるはずなのに、どうしてわざわざナイトデスクが必要なのでしょうか。

 東京のお客さんは良くも悪くもサラリーマンです。基本的にあまり宵越しのポジションを持ちません。ゴールドの販売に従事する人は、お客さんにゴールドが売れたらそのまま同じ数量をマーケットでカバーします。そして就業時間が終われば基本的にはスクエア、つまり相場の価格変動リスクはほとんどない状態にしています。そのため東京のディーラーたちも夜はお客さんの注文もなく、自分自身のポジション以外にはビジネスもないというのが普通です。

 ところが他のアジアの地域は日本人ほど真面目ではありません。彼らはどんどんポジションを取り、相場を張ります。これは日本人とたとえば中国人なんかとの大きな違い(おそらくは文化的な)と私は考えています。彼らは我々よりもはるかに山っ気が強いです。マカオのカジノに行けば、そこでギャンブルに熱中している中国本土の人々をたくさん見ることができます。

 たとえば中国の金属精錬業者もばんばんと相場を張ってきます。まったく日本のサラリーマンとその行動パターンが違うのです。本来なら売るべき人々が価格が安いから買いから入って上がったら倍売り戻すといったことを平気でやります。その逆もまた真です。本当は10だけ売ればよいところを20や30の単位で売ったりするのです。必然的にマーケットが動く時は、大量の売り買いを頻繁に行う顧客が多くなります。そしてこういったお客さんは当然のことながら、絶えずなんらかのポジションを抱えており(もはや実需家ではなくトレーダーですね)、マーケットをほぼ24時間みています。私はこういった人々のことを個人的に「実需投機家」と呼んでいます。アジアの「実需投機家」は、中国圏では当然のことですが、東南アジアでも中国系の人々が多いのです。そのため横のつながりも太く、同じ方向の取引になることがままあります。

 本来であれば、アジア時間が終わればロンドン、ニューヨークとその時間帯の中心オフィスに連絡をとって取引をしてもらうのが筋です。ところがこういったお客さんで英語をしゃべることができる人は稀です。みんな中国語での会話を好みます。そういった顧客のニーズに対応するためナイトデスクを置いて、中国語での対応をするようになったのです。

 顧客は昼間と同じようにシンガポールや香港オフィスに電話して取引をすることができます。そして彼らはそれをロンドンやニューヨークのオフィスからの価格でヘッジするといった具合です。相場のもっとも動く時間帯がニューヨークであることを考えるとこれは必要なサービスなのです。アジア時間帯のデイデスクよりもナイトデスクのほうの取引が活発になることはしばしばあります。

 東京では夜に活発に取引をする実需家はほぼいないと言ってよいでしょう。ですから私の知っている限り、顧客ビジネスのためにナイトデスクを置いている会社は皆無です。ただ今後、東工取の取引が2010年9月から午前4時までに延長になると、実需家のビジネスとは違った角度から、東京でもナイトデスクを作る動きが出てくるかもしれません。もちろん、夜中にディーラーを配置するそのコストすべてをカバーするだけの利益が出るという確固たる見通しがなければおいそれとは実行には移せないと思いますが。

★池水氏によるブルースレポート
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Gold Dealerの一日(番外編1)
2010年4月30日

 さて、先週まででだいたいゴールドディーラーの一日の描写は終わりました。今回からはその番外編。昔を少し懐かしんで思い出すまま書いてみましょう。

商社の売上高競争と金のディーリング

 私が若かったころ(今でも十分若いと本人は思っていますが)、1980年代後半から1990年代を通して、東京の貴金属市場がもっとも華やかな頃でした。東京市場は各総合商社が先を競ってゴールドディーリングに参入したものでした。

 当時は商社のランクは「売上高」で見られていました。その「売上高」を手っ取り早くあげる方法として「金のディーリング」は非常に都合のよいビジネスだったのです。ものすごく単価のはる商品を大量に非常に小さな利ざやで売ったり買ったりします。そのたびに売上高が増えていくわけです。特に当時の中位から下位商社にとってはこれほど簡単に売り上げを伸ばす方法はなく、少々のコストをかけてでも「金のディーリング」と称して売買を繰り返す価値があった訳です。もちろんライバル商社との間で取引をしてしまうと相手の売り上げも上がることになります。そういうことから、外資系銀行などと1セントのスプレッドで10万オンスの売買を行う、つまり当時の金額でだいたい4000万ドルくらいの売り上げを1000ドルの手数料を払って買っていたということが現実にありました。

 自分および私が働いていた商社ではまったくそのように売り上げのかさ上げを意図してディーリングをしたことはありませんでした。当時は私がクレディ・スイス銀行(CS)から三井物産に移ったばかりの頃で、がんがんにディーリングをし始めた時だったのですが、それによって三井物産の売り上げが大きく伸びてしまいました。それでほかの商社がキャッチボールを始めたということがありました。もちろん、こちらはそんな意図はまったくなかっただけに、あとから話を聞いてびっくりというところだったのですが、当然ながら、商社の売上高という指標に金のディーリングを入れることの無意味さは明らかです。さすがに数年以内に、金のディーリングは売上高からはずすという商社間での合意ができたと記憶しています。

金利自由化前夜 - 金貯蓄口座の隆盛

 そもそも商社の金のディーリングが脚光を浴びだしたのはまさに私がこの世界に入った頃1985,6年前後の話です。当時はようやく日本も規制金利制度が崩れ、金利が自由化されたばかりでした。金利自由化の夜明け以前にまず日本で「金」が脚光を浴びることがありました。当時「金定期」もしくは「金貯蓄口座」と呼ばれた商品が爆発的にお金を集めたのです。

 「金貯蓄口座」は金利自由化の前に個人投資家に「市場金利」を与える商品として開発されました。「金」という名前はついているものの、実際には個人にとっては「市場金利での預金」ができる商品だったのです。たとえば円建てゴールドのスポット買い、三ヶ月先物売りというスワップを行い、買った金をその三ヶ月間運用すると、円の市場金利と同じ利回りになります。金利裁定が働いているので、必ずそうなります。

 この仕組みを利用して、当時は規制により市場金利よりも相当低く抑えられていた銀行の3ヶ月もの、6ヶ月もの、1年ものの定期預金よりもはるかに高い確定利回りの商品としてこの金貯蓄口座というのものが証券会社から売り出されました。野村證券は三井物産と、大和證券は住友商事というように、各証券会社のバックには商社がおり、証券会社は投資家の資金を呼び込むための商品として銀行よりもはるかによいレートを武器に資金を集め、それを商社が金の現物先物スワップを組むことにより運用していたのです。

 当時証券会社には中期国債ファンド(中国(ちゅうこく)ファンド)と呼ばれる自由金利商品が存在していましたが、預け入れ1ヶ月は解約ができないなどの制約があり、また長い期間では金貯蓄口座にレートで負けたために、金貯蓄口座は当時の証券会社が投資家の資金を銀行から呼び込む最強の金融商品となっていったのです。最盛期には数百億から数千億という単位で資金がこの商品に流れこみ、あっという間に商社の貴金属部の商売の柱に成長したのです。

★池水氏によるブルースレポート
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Gold Dealerの一日(番外編2)
2010年5月12日

 今週も金貯蓄口座の話の続きです。

 繰り返しになりますが、この金貯蓄口座はまさに銀行預金金利が政府の規制(いわゆる金融機関保護のための日本独自の「護送船団方式」と呼ばれた政策です)により意図的に低く抑えられている環境下において、個人に対して市場の自由金利を与えることができるという点で画期的なものでした。やはりその結果として、銀行から証券会社へ大きく資金が動く原因となりました。また商社各社の当時の貴金属部にとって、これはあっという間に収益の中心のとなりました。数百億円といった額のお金を動かすだけで、手数料が入ります。これはドル箱の商売になりました。

 しかし「金貯蓄口座」は「金」の名前を冠してはいますが、実際にはほとんど「金」自体は関係ありません。経済効果としては、市場金利で預金をしているということに他なりませんでした。理論的には、例えば運用期間が6ヶ月ものであれば、投資家から預かった資金で金の「スポット買い6ヶ月先物売り(現買い先売り)」をかけて、スポット買いした金を六ヶ月間リースで運用するというものです。これを円建てでやれば円の市場金利になります(もちろん、取引にかかるスプレッド等は考えずに、ですが)。

 実際このビジネスの後期には金の現先のスワップ+リースで運用するよりも、直接外銀に円預金するといったこともあったようです。とにかく投資家に市場金利を与えること、これがこの商品の肝であったわけです。当然のことながら、日本でも自由金利化がすすんでいきます。そうなれば金貯蓄口座の存在意味はなくなるわけです。

 そういった流れの中、決定的な出来事が証券会社からのMMF( Money Market Fund)という商品の登場でした。これはまさに短期市場金利をそのまま反映させる商品であったこと、そして何よりも、証券会社自体が主体的に動けることから、それまで金貯蓄口座に向かっていた資金はどんどんMMFに流れて行くことになり、あっという間に金貯蓄口座は衰退に向かって行くことになったのです。奢れる者も久しからず、まさにそういう言葉がぴったりな状況となりました。そもそも規制金利の隙間をついた商品であったために規制金利という状況が解決されると必要でなくなるというのははっきりしていたと言ってよいでしょう。

 当時の私はまだ駆け出しの社会人であった頃です。一消費者として、金貯蓄口座で初めて「金利」という概念に触れた気がします。当時は一週間、一ヶ月、三ヶ月、六ヶ月、一年といったようないろんな期間のものが用意されており、金利動向を考えて、短い期間でまわすべきなのか、はたまた長い期間で固定すべきなのか、いろいろと迷ったものです。ただその時の経験が金利というのもを考えるきっかけとなり。すべての経済活動の根底にあるものが金利だとこれによってようやく気づいたような気がします(笑)。当時はちょうど金利上昇期にあたり、最後のピークアウト時には郵貯の定額貯金(10年)と長信銀のワイド(5年)といいう固定金利商品に貯金をすべて突っ込みました。金貯蓄口座は最長一年しかなかったので。今から思えば自分の投資行動の中でも最高のディールだったかもしれません(売り買いのもの以外では)。

 来週は金貯蓄口座以降の話を書きましょう。

★池水氏によるブルースレポート
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ゴールドディーラーの一日(10)
2010年6月16日

 さて、今週は本編に逆戻り。ロンドン・プラチナ・ディナー前へ話しを戻します。

 ほぼ1カ月前の5月12日以来、ゴールドディーラーの一日からはじまった話の続きです。唐突と思える方はバックナンバーをお読みください。

 金貯蓄口座という柱がなくなったあと、商社が力を入れたのが「金のディーリング」だったのです。80年代後半から90年代前半にかけて、商社各社が競うようにディーリングルームなるものを作り始め、またディーラーの中にはマスコミからの取材を受けることがあったりと社会的な注目も少なからず受けるようになったのです。これから2000年代半ばくらいまでが金の「ディーリング」の最盛期だったと言えるでしょうか。

 ディーリングを始めるにあたって、各商社はそれなりのバックグラウンドの違いから、その取り組み方もおのずから違ってきました。ある商社は国内の現物ビジネスに長じており、貴金属商や宝飾業者などからの注文を背景にディーリングを始め、また違った商社はオーストラリアの鉱山会社のビジネスに深く食い込んでいたために、そういった鉱山会社からのオーダーをバックにディーリングを始めたりしました。もちろんそういった背景をまったく持たず、とにかくほかがやっているからという理由だけで始めた商社もありました。事情は各社いろいろでしたが、ともかく、大手商社が金のディーリングを始めることによって、それまでは香港市場にしたがっていただけの東京も、東工取の隆盛と大手商社のゴールドディーリングへの注力がお互いに対して相乗効果を発揮し、名実ともに東京市場と認識されるようになりました。

 実際にそれから何年もの間、東工取は隆盛を極め、東工取とロコ・ロンドンとの裁定取引により、大部分の商社にとってゴールドのディーリングは貴金属部のドル箱的存在になったのです。

 そして今。あのころの隆盛がうそのように商売が細ってしまいました。建て玉残のチャートを見てみると特に2008年からのここ2年間は、史上最高値を続ける金相場自体の盛り上がりにもかかわらず、ゴールドの東工取の建て玉は活発だったころの3分の1にまで落ち込んでいます。


 いろいろな原因が考えられますが、そのもっとも大きなものはやはり、商品取引員に対するその営業手法への法的な締め付けです。マーケティングの手法において、やはり社会問題を引き起こすことまでいたったのは是正されてしかるべき、これは仕方のないことでありました。ただし、東工取の流動性の根源であったのは個人投資家の資金であり、ここを締めることによって、その流動性に支障をきたしたのも事実です。取引員に対する締め付けはまさに両刃の刃であったわけです。残念ながら今日に至るまで個人投資家が与えてきた流動性に変わるものが見つかっていないのが現状。人気のバローメーターとなる取組高も10万枚近辺が頭打ちという状態がずっと続いています。流動性のないところにファンドなどのプロも入ってこず、彼らが入って来ないことによってまた流動性が増えないという悪循環に陥っているのです。

 また東工取の低迷に拍車をかけたもうひとつの要因はNymexがAccess(のちにはGlobex)というシステムでのコンピュータ取引をニューヨーク時間帯以外でも始めたことです。従来のOpen out cryのシステムではNymexはニューヨーク時間帯に、Floorと呼ばれる取引所でFloor Trader(場立ち)という人々を介して取引が行われていたのを、コンピュータによってほぼ24時間、つまり東京時間帯もNymexのコントラクトを取引できるようにしたのです。つまり欧米の投資家は、わざわざ円建てでの東工取での取引をしなくても、アジア時間帯でもNymexのコントラクトが取引できるようになったのです。これは東工取にとっては不運というしかないでしょう。そしてNymexにとってはアジア時間帯の特に欧米のファンドをはじめとする投資家のオーダーを取り込む絶好の機会となり、事実そのようにことが運んだのでした。

 そして現在。東工取を中心として東京独自のディーリングスタイルはもはや過去のものとなり、最近は東京のディーラーもNymex(Globex)での取引比率が多くなってきています。流動性が激減した東工取は中心ではなく、ひとつのチョイスになってしまいました。Globex経由のNymexやEBSでのLoco London goldが東工取以上に重要な市場となっています。また東工取の新システムのおかげで、世界中どこでも物理的に取引が可能になったことから、ますます東京にディーリングデスクを構える意味がなくなってきています。今後一層東京市場の空洞化がすすみ、もはや東京にゴールド・ディーラーが存在しなくなる。このまま行くとおそらくそうなってしまうでしょう。そうなればアジアでの価格決定力はおろか、マーケットの存在すら危ぶまれることになってしまうのでは、と危惧します。それを防ぐためにも東京市場の活性化はもはや焦眉の急務となっているといえます。

以上

★池水氏によるブルースレポート
http://www.ovalnext.co.jp/bruce/