「CFTC公聴会とハント事件」
2009年8月12日

 さて、今週からしばらくちょっと昔を振り返りましょう。

 現在、米国オバマ政権が近年の商品相場の価格の高騰に対して、「投機筋」を目の敵にしているようです。特に最近はヘッジファンドのみならず、いわゆるインデックスファンドの買いとして、ポジションの制限を免除されている投資銀行にもメスを入れようとしています。

 2009年7月28日火曜日から始まったCFTC(米商品先物取引委員会)の公聴会にはゴールドマン・サックスとJPモルガン・チェースが呼ばれています。もちろん投資銀行側としては、「インデックスファンドのためのヘッジの買いは投機ではない」との論理と、「ポジションの規制は市場の流動性に多大な悪影響を与える」という点から、いかなるポジション規制にも反対の立場です。

 「投機」と「投機でないもの」をいかに区分けするのかが非常に重要なポイントになってきます。このやり方を間違えると市場が正常に機能しなくなる恐れがあり、ここでのCFTCの決定は商品市場に少なからず影響を与えるものになると思います。

 CFTCのサイトにこれまでの公聴会の発言内容のドラフトが掲載されています。

 各社の立場が表れていておもしろいのですが、私にとっては特にDr. Henry Jarecki氏の証言がなかなか興味深いです。彼自身がその証言の中で少しだけ触れていますが、「ハント兄弟 の銀買占め事件」の時のことを思うと、ポジションの規制を強力に推し進める側からポジション規制などするな、という立場に変わり、なんだかちょっと皮肉な内容だと感じてしまいます。

 この「ハント兄弟の銀買占め事件」に関して、拙著『ゴールドディーリングのすべて』に書きましたが、おそらく現在この事件に関して詳しく知っている人はほとんどいないのではないか、と思うので、拙著が幻になってしまった今、あえてここに再録したいと思います。これを書いたのが1993年ですので、その当時のマーケットをベースに記述してあります。それもまた今読むとおもしろいかもしれません。たとえば当時の銀の価格は3.70ドルでした。2009年8月初旬現在、14.70ドル、16年の間に銀の価格はほぼ4倍になったことになります。

次週に続く

★池水氏によるブルースレポート
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シルバー・ブルズ「ハント事件」(1)
2009年8月19日

 さて、ここから本編です。拙著『ゴールドディーリングのすべて』より再録しています。

シルバー・ブルズ「ハント事件」

 1993年年初時点の銀の価格は4 ドルを割り込み3.70ドル近辺であった。もはや銀は貴金属とは呼べないという冗談になりそうにもない冗談が、ずいぶんと長い間ディーラーの聞で話されている。この銀が一時50ドルまで暴騰したことを信じられる人は少ないであろう。しかし、それは本当に起こったのである。ポール・サーノフ氏が書いた『シルバー・ブルズ』という本をもとにこの事件を見てみよう (私が貴金属ディーラーとなる数年前の出来事であり、幸か不幸か私自身は自分の経験として語ることができない)。

 1979年8月の第3週から翌80年3月末の約半年の間に銀価格は 9ドルから50ドルに急騰し、その後一挙に10ドル台まで急落するという前代未聞の動きがあった。その背景となったのがテキサスの石油富豪であるハント兄弟による銀買い占め、いわゆる「ハント事件」である。(筆者追加:ちなみにこのとき金は855ドルまで急上昇し、長い間これが金の史上最高値であったことは皆さんも御存知の通り)。

 「ハント事件 」と呼ばれているが、実際この短い聞に銀の買い手となったいわゆる「シルバー・ブルズ」(銀強気筋とでも訳すべきか。ブルは強気筋のこと。反対の弱気筋はべアという。ブルは雄牛、ベアは熊のこと。牛は攻撃をするとき角を下から上へ突き上げ、熊は爪を上から下へ降り下ろす。その動きを相場の動きに例えたもの)は、ハント兄弟だけではなかった。その動きがある種の共謀のもとに行われたかどうかは別として、銀を買い上げたのはハント兄弟を筆頭として、商品先物で財をなしたノートン・ウォルチ、ブラジルに住むレバノン人ナジ・ロパート・ナハス、そしてサウジアラビア王家の代理人であったと思われるマームド・フストクなどという名前が当時の「シルバー・ブルズ」として挙げられている。

 彼らを異常ともいえる銀の買いに走らせたのは何だったのだろうか。これは当時の経済、および政治情勢を考えなくてはならない。

 経済情勢としては、 OPEC(石油輸出国機構)の原油コントロールによる世界的なインフレーション懸念、それによる米ドルの価値の相対的低下。政治情勢では、ソ連のアフガニスタン侵攻、イランによる米国大使館占拠事件。

 このような条件下、シルバー・ブルズの共通の悩みは彼らの巨大なドル資産の目減りであった。インフレや世界情勢の緊張化にも、その価値が減らない資産への資金移動が必要であったということである。銀は貴金属としてインフレに強く、また戦略物資として第三次世界大戦勃発時 (当時の 情勢では非常に現実的な心配事であったはずである)は、おそらくその供給が需要に追いつかないであろうと予測されており、彼らの目的にはぴったりの商品であったといえる。

次週に続く

★池水氏によるブルースレポート
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シルバー・ブルズ「ハント事件」(2)
2009年8月26日

 シルバー・ブルズたちはCOMEX、および当時COMEXと並んで活発に銀を取引していたCBOT (Chicago Board Of Trade:シカゴ商品取引所)で先物を積極的に買い、またロンドンの LME(銀はLMEの上場商品でもあった)やロンドン、チューリツヒの現物市場でも銀を買い付けた。

 彼らが銀を買い始めたことによって銀価格は徐々に上昇を始めた。おそらく価格が上がっただけであればこれほどの事件にはならなかったであろう。問題は買い手がそれを利食いすることなく、すべて現受けしようとしたことであった。

 彼らに対して売り手(ショート)となっていたのは、結局へッジャーや大手のブリオン・ディーラーたちであった(モカッタ・メタルズ、シャープス・ピクスレー、 J・アロン、フィリップ・ブラザーズなど)。ショート筋が売り向かった現物をすべて用意できれば問題なかったのだが、先物取引の常で、特にブリオン・ディーラーたちは自分たちの調達可能な範囲以上のショートを持ったため、ロング筋が利食いの売りを出さない限り、納会が近づくにつれてスクイーズ(玉締め)の恐れがでてきた。

 そのためCOMEXやCBOTといった先物市場の先導のもとに銀価格はスパイラル現象を起こし、79年8月には10ドル以下だった銀は9月の第一週には 15ドルを超え12月には20ドルを突破、年末にはソ連のアフガニスタン侵攻が起こり、79年は29.05ドルで引けた。そして 年が明けた1月には毎日のようにストップ高が続き、80年1月17日には期近限月が48.80ドルまで取引された。

 銀がこれだけの暴騰を続けていた間、ショートを持ったブリオン・ディーラーたちも手をこまねいていたわけではなかった。特に当時の最大手のショートであったと考えられるモカッタ・メタルズ社のへンリー・ジャレッキー氏を中心として、COMEXの理事会、および彼を議長とした特別証拠金委員会では、銀取引の証拠金の引き上げや各取引員を通じた大口買い手筋の公開などの「買い手対抗策」を打ち出していった。

 そしてこの最高値を記録した80年 1月にはとうとうその最終的手段である「リクイデーション・オンリー・ルール」を提案・採用するようになった。これは新規の取引を許さず、既存のポジションの利食い、および損切り、つまり手仕舞いのみを許すというルールである。

 このルールと時期を同じくして米連邦準備制度理事会 (FRB)が、金や銀のロング筋のための資金融資に対する目を光らせ始め、またプライム・レートも 15%を超えた。当時のアクティブ・マンス(中心限月)である3月限にロングを持っていたシルバー・ブルズは次の5月限、もしくはそれ以降の限月へのロール・オーバーをすることもできず(スプレッドは経済的にみて非現実的とも呼べるほどひどいものになっていた)、また現在でいう FRBによる「クレジット・クランチ」によって、受け渡されて現物在庫となっていた銀を、金利をかけて保管することもできなくなった。つまり、この時点で、COMEXの「シルバー・ブルズ」に残された道は、先物市場における反対売買で売り抜けることだけであった。

 「シルバー・ブルズ」はCOMEXの採用したルールによって、ショートを持っている相手に売る方策しかない状態に追い込まれてしまったのである。そのルールを採用したCOMEXの理事会は、当時のショート筋の大手である 4社の代表を含んでいた。モカッタ・メタルズ社へンリー・ジャレッキー氏、シャープス・ピクスレ一社のエドワード・ホフスタッター氏、フィリップ・ブラザーズ社のレイモンド・ネッシム氏、そしてJ・アロン社のハーパート・コイン氏である。

来週に続く

★池水氏によるブルースレポート
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シルバー・ブルズ「ハント事件」(3)
2009年9月2日

 「リクイデーション・オンリー・ルール」およびそれに続く金融引き締めによる、ロング筋の締め付けにより引き起こされた結果は火を見るより明らかであった。ショート筋はもちろん一斉にビッドを引き、ロング筋がその巨大なロングを売り抜けるためには銀価格の急落は避けられないものであった。実際にこの後、銀価格は2月には30ドル台に急落し、そして3月にはなんと10ドル台まで暴落したのであった。

 もしがんじがらめの規制に合わなければ、シルバー・ブルズはCOMEXやCBOTで先物買いした銀をすべて現受けするつもりだった。つまり、買い占めることによってスクイーズを起こし、価格を上げ、売り抜けるといった単なる短期的な投機ではなく、本当に銀の現物を手に入れたかったのである。

 実際、ネルソン・ハントはそれまでも大量の銀を現受けしている。そして非常に大量の銀の現物を実際に所有していた。彼は銀に魅せられたように世界中の銀を手元に集めようとしていたのである。結局その野望は現物を渡すことのできないショート筋のために潰されてしまったのだ。

 彼は金銀比価が5対1になるのが正しい姿だと信じていた。実際、 80年 1月には約15対1までその差が縮まった。ひょっとすれば彼は未だにそう信じているかもしれないが、少なくともハント事件後 10年以上たった今、約 90対1と金と銀の価格差は開く一方である(筆者追加:ハント事件後ほぼ30年たった2009年8月現在、金銀比価は、65対1である)。

 この事件はハントを中心とした、いわゆる少数の買い手筋が意図的に相場を操作したということで、批判を浴びることとなった。しかし果たして取引所がとった買い手の絞め殺し(?)は、正しかったのであろうか。

 買い手筋の対局にあったのは同じく少数のブリオン・ディーラーの売り手筋たちであった。そしてこの事件の80年上半期、これらブリオン・ディーラーは記録的な収益を上げている。この裁定は常に買い手にも売り手にも中立な立場をとるべきである取引所の本来の姿からすれば、あまりにも一方的である気がする。そのせいか CBOTでは市場規制の結果、銀の取引はほとんど行われなくなった。またCOMEXでも投機家の人気離散を招き長い間取引は低迷することとなる。

 「ハント事件」は貴金属市場に深い傷を残した。多くの相場参加者が大きな損害を被った。しかし最も大きな傷は、多くの人々に取引所の中立性に対する疑問を抱かせたことではなかろうか。

終わり

★池水氏によるブルースレポート
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